ベストセラー「嫌われる勇気」の著者で哲学者の岸見一郎先生の記事を読んでいて、みなさんにその記事をご紹介したいと思い、この記事を書きました。
岸見先生は母親を学生時に亡くし、漠然と思っていた人生設計が崩れ去ることを体験したのだそうです。このときに、こう思ったのだそうです。
母のように死を前にしてベッドで動けなくなれば、たとえお金があったとしても、高い社会的地位についていたとしても、まったく意味がないことに思い至らないわけにはいかなかった。くる日もくる日も母の病床で、ベッドの上で身動きが取れず意識もない母を見て、私はこのような状態にあってもなお生きる意味はあるのか、幸福とは何かを考え続けた。
(略)
三ヵ月の間、母の病床で過ごし、母の遺体と共に家に戻った時、私は目の前に敷かれていると思っていた人生のレールから、自分が大きな音を立ててすでに脱線していたことを知った。
その後、岸見先生は結婚し、子育ての最中に出会ったのが「アルフレッド・アドラーの個人心理学」だったのだそうです。
どんなに苦難に満ちた日々でも、ともすれば見逃してしまうかもしれない瞬間にこそ、本当の幸福は潜んでいる。ささやかな幸福以外に幸福はない。たとえその人が、どんな状況にあっても。
母が病床で私に教えてくれたのはまさにこのことである。病気で倒れる前、私は母にドイツ語を教えたことがあった。ある時、母が、その時に使っていたテキストを病院に持ってきてほしいといった。母に再びドイツ語を教えていた時、母の病気にもかかわらず、私は幸福だった。そして、おそらくは母も。
このような内容で岸見先生の記事が進んで行きます。記事の内容を要約してすべてを出すと、本当の記事を読んでいただけないかもしれないので、ここでこれ以上の詳細は書きませんが、この記事から「嫌われる勇気」を書かれた岸見先生のルーツがわかるのではないかと思いました。
以前、岸見先生の講演を聴く機会がありました。当時は「嫌われる勇気」がベストセラーになりかけのときで、そこで「嫌われる勇気」についておっしゃっていたのは次のとおりでした。
「みんな(人には)嫌われたくないですし、好きでいられたい。そうみなさん思うかもしれないけど、でもね、”嫌われろ!”と言っているのではなく、”人から嫌われることを恐れるな!”という意味です。嫌われることを恐れている限り、自分の人生を生きられないからです。
絶えず人の顔色をうかがい、人に嫌われることを言わない、しないでおこう、という風に生きると非常に不自由な生き方を強いられると思うんです。ですから、もしみなさんの周りに自分を嫌う人が誰1人いないという風に思っていられる人がいたら、きっと不自由がついてきていると思います。嫌われているというのは自分が自由に生きているということの証です。」
そして、このご紹介している記事にも出てくる父親との関係の話も講演のときに話をされていました。岸見先生も両親との関係があって今の生き方、考え方になっているのだということを理解することができます。
どんな人も自分の生き方が父親や母親など家庭での過ごし方がすごく影響してきます。今、いろんな対人関係の悩みを抱えている方がたくさんいらっしゃるのではと思いますが、どなたもその鍵はお父さん、お母さんとの関係による可能性が大きいと思います。ですが、それはその両親が「原因」ではなくて「自分のとらえ方」に課題があることが実際に悩みを抱えたかたと話をすると多いのです。
記事の最後には、「幸福」について「ギリシア哲学者 ディオゲネス」を題材にして締めくくられています。ぜひ、それを読んでいただけたらと思います。
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